福島県の人は彼女がミス福島であったり、福島テレビに出ていたことを知っているかもしれません。私は、いつも温かいお声をかけて頂く映画監督の喜多一郎氏より「すごく活動的で素敵な女性がいるんだよ」とご紹介して頂いての出会いでした。その活動もよくぞ若い女性がこんなにも人のためにやれるものだと驚くことばかりで、年下とはいえとても緊張しながら、興味津々でお会いし、インタビューをさせて頂きました。

さて、どんな人魚の登場でしょうか?!

 

Photo/Yuriko Yonechi

 

 

ーまずは生い立ちについて聞かせてもらえますか?

 

はい。私は母がタイ人で父が日本人です。父がタイに駐在している時に母と出会って、母をお土産に日本の福島に戻って結婚したんです。なので私は福島で育ったのですけど、全校生徒27人、同級生5人しかいない、野原と山と川に囲まれた田舎でのびのびと育ちました。母がタイ出身なので、小さい頃からタイと日本を行き来していて。両親の離婚があって、小学校と高校、専門学校は日本、中学校はタイで過ごしました。タイでの生活はスラム街で、川でお風呂に入って、食べられる草を採ってきて茹でてナンプラーをまぶして食べるような貧しい暮らしでした。なので、日本のバックボーンもありますし、タイのバックボーンもあります。私は日本での恵まれた生活も知っていたし、タイでの貧しい暮らしも経験しました。私の母は貧困からの脱出手段は教育だと言って、タイの中でも名門のお嬢様やお坊ちゃんが通うようなインターナショナルスクールに通わせてくれたんです。昇降口にレッドカーペットが敷かれていて、友達はフェラーリーなどの外車で登校してくるのですが、私は鶏を運ぶトラックに朝乗せてもらって登校していて。その時期に一番貧富の差を経験しましたが、質の良い教育を受けさせてもらい、母にすごく感謝しています。この経験が自分のやりたいことの芯、軸になっていると思います。

 

 

 

ーやりたいことって?

 

”社会貢献”です。国際支援活動に興味があるんです。日本で小学校はのびのび育てられたのですけど、そのギャップを中学校の時に感じたんですね。お金がないからチャンスを掴めないという人が周りに居たし、私も経験したことがあって。貧しさから自分のやりたいことを叶えられない子供たちを大人になったら助けたいという気持ちで中学校3年生の秋に日本に戻って来て、福島の高校を受験しました。その中学校の卒業式がちょうど東日本大震災が起きた3月11日だったんです。私は福島の中通りに住んでいた、浜通りの人たちは津波の被害に遭い、原子力発電所の爆発が起きて、すごく大変なことが福島で起きているって。

 

 

 

ー東日本大震災の発生時に福島に居たのですね。

 

 

元々福島は自分の故郷で好きな場所だったのですが、震災を経験してからより一層、故郷福島に対する思いが増しました。世界中に福島のイメージが原発のことでネガティブに伝わってしまっていることがショックでした。高校では国際文化科で学んで、高校一年生の時に、国連の事務総長が福島の視察に来るということになり、学生代表で事務総長と対談させて頂きました。授業では地域創生のカリキュラムがあったり、原発について学んだり、普通は勉強しなかったことを震災を経て学びました。被災地にボランティアで行ったり、炊き出しをしたりする活動もたくさんさせて頂きました。周りの大人の人たちが福島の復興のために頑張っている姿を見て、福島に対する愛が深くなったり、地元を盛り上げたいという気持ちになったことが今に繋がっています。

 

 

 

ー高校卒業後はどのような道に?

 

 

高校卒業した時に地元に残るか、県外の大学に進学するかと悩む人が多いと思うのですが、私はやっぱり地元が好きだし、福島で頑張っている大人の人たちがいっぱいいるこんなかっこいい町はないって思って、福島に残るって決断しました。私の芯となっている国際支援に対する思いもまだ全然残っていたので、国際支援に繋がる分野で福島に残れることな何だろうって考えた時に、地元の看護学校に通うことにしました。いろいろなことをやる中で、私には1本に軸ができていて。国際支援に対する思いと地元福島に対する思いがいつも心の中にあります。

 

 

 

ー看護師資格を取ったのですね。

 

 

看護師の資格を取った後に、”実際に国際支援ができるぞ”ってなって、カンボジアに行き、看護師として働きました。貧困地域の農村で健康診断のお手伝いとか、小学校の建設に携わったり。団体に所属するのではなく個人で支援プロジェクトを立ち上げて、支援を募ったり、現地のコーディネーターやJICA(国際協力機構)の人たちと繋がりながら実現してきました。わかりやすい例としては、歯ブラシプロジェクトというものを立ち上げました。健康診断をして子供たちの健康状態を把握できるのですが、農村部の子供たちは歯ブラシを買うお金がなくて歯がボロボロでした。それが衝撃的で。ご飯を食べることに直結する歯がボロボロで、痩せ細ってご飯も食べられないという子供たちも居て。それを何とかしたいと思って、日本の帰国して福島でメディアの力を借りながら歯ブラシを集めました。歯ブラシの寄付を募って、福島の歯科医師会や福島市長のバックアップを頂いて、福島から歯ブラシを贈るプロジェクトを立ち上げたんです。その歯ブラシを持ってカンボジアに行って、現地の子供たちに配って歯磨きの仕方の衛生指導を行いました。

 

 

 

 

ー看護師として国際支援をしていて、その後ミスコンに出場したのは?

 

 

それらの活動は結局個人でやっていた活動なので、できることに限界を感じてしまって。もっと支援したい分野もあるし、やりたいことはたくさんあって。団体に所属したらもっと大きなことができるのか?と悩んだ時期もあって。その時に、国際支援活動はお金も人も動かさなければならないから、発進力や影響力がある人になればもっと私の言葉に耳を傾けてくれる人が増えるんじゃないかって思ったのがきっかけで、世界三大ミスコンの一つで、一番歴史があって大きいミスユニバースに20歳の時に応募しました。

 

 

ーすごい方向転換ですね。

 

 

当時は身長制限があって、160cmしかないから書類審査で落ちるかなと思いながらもやってみたいって思って、誰にも言わずに書類を送ったら書類が通って。そこから一次審査、二次審査、三次審査、決勝まで続くのですが、一次審査の会場に行ったら100人ぐらいすごく綺麗なモデル、芸能人みたいなお姉さんがいっぱい居て。こんな中に自分が来ちゃって大丈夫かなって思いました。でも影響力のある人物、オピニオンリーダーみたいな存在になって発信したいという気持ちだったから頑張ってみようと思ったんです。そうしたらどんどん勝ち進んでいけて、時には無理かもって思った時もあったのですが、信念があったので諦めたくないと思って臨んでいったら、福島大会でグランプリを獲ることができて、日本大会で出場が決まりました。

 

 

 

ー日本大会では?

 

 

残念ながら日本代表に選ばれた人に負けてしまったのですが、特別賞を受賞させて頂きました。本当は日本代表になりたかったから悔しかったのですが、

特別賞には理由があると思っているんです。ミスコンに参加している期間はざっと計算すると書類審査からミス福島の任期が終わるまで2年ぐらいあったんですが、その間ずっと国際支援や福島でボランティア活動を続けていたんです。福島代表として福島のことを聞かれても答えられなかったら代表じゃないなって思ったんです。震災の時から復興への道のりは見て経験して来たけど、もっと深い部分に寄り添っていかないといけないと思って、第一原発の視察にも鉛のベストを来て入らせて頂きました。国際支援の問題についてももっともっとフォーカスをして女性の支援、貧しい地域の女性や子供たちの支援に特化した活動をその2年間たくさんやらせて頂きました。そういう活動が日本大会の時に評価されたという実感がありました。

 

 

 

 

ーミス福島としていろいろお仕事されたのですね。

 

 

地元福島で、ミス福島として福島の観光PRをお願いしますとか、福島の魅力を発信する仕事をたくさん頂きました。県知事と桃のPRをしたり、メディアに露出する機会が多くなって、大好きな福島のことを自分の言葉で伝えられるのがうれしかったです。テレビ番組にも出演できるようになって、より影響力のある人、発進力のある人になりたいという気持ちが強まりました。その気持ちをテレビ局の人に相談したら、福島が大好きな気持ちはわかるけど県外に出てみたらと提案して頂いて。それで上京して今に至ります。

 

 

 

ー上京して芸能活動を?

 

 

上京した時はオスカープロモーションのモデル部に1年間所属していました。今もやりたいことは変わっていません。今はコロナの影響もあって国際支援活動ができていなかったりしていますが、もっと自分が有名になった時に福島での活動や国際支援活動の幅が広がると思って、今は芸能界で成功したいという気持ちが一番前に出ていますが、芯の部分は何も変わっていなくて。去年からお芝居を勉強してきて、最近は映画のオーディションを受けたり、喜多監督とのご縁もあり、女優としての触れ幅を広げている最中です。

 

Photo/Yuriko Yonechi

 

 

ー今後の目標は?

 

 

モデルとしての経験もあるし、タレントとしてバラエティ番組に出ていた経験もあるので、自分ではモデルなのかタレントなのか女優なのかはわからないですけど、最終的な目標はユニセフ親善大使になりたいんです。オードリー•ヘップバーンが大好きな私のロールモデルです。彼女は世界的に有名な女優で、その名声を使ってユニセフ親善大使として貧しい子供たちのケアをしたり、発信をしていたから、私もそこまでいきたいと思っています。どんな女優なのか、タレントなのか、モデルなのかはわからないですけど、有名になった影響力、発信力を使ってヘップバーンのように世界中の子供たちを助けたいというのが最終目標です。チャンスは狭めたくないので、女優なのでお芝居の仕事しかしませんとかではなくて、すべてそこに辿り着くまでの課程として捉えているんです。課程だから本気じゃないとかではなくて、女優は女優の仕事の深さを実感しています。芸能の仕事の奥深さというか。制作している人たちの連携とか、一つの作品を作る熱意ですごく動かされていて、私も本気で極めたいと思います。

 

 

 

ー福島でシェアハウスプロデュースをしたと聞きましたが?

 

 

福島の魅力を伝えたい、福島への移住者を増やしたいと思っていて、そのような事業をいつかやりたいって思っていたんです。そうしたら、去年そのような事業に対して補助金があるっていうことをお聞きして。福島にはシェアハウスがなかったんです。私は海外とか東京でシェアハウスやゲストハウスを多く見て来たので、そこで生まれるコミュニティとか出会いで自分の視野が広がるという感覚があって。だから福島にそれを持って来たいと思ったんです。福島で育って夢を持った子たちが福島ではその夢を叶えられないと県外に出て行くことが多くて、それがもったいないなって。福島にも震災の復興で力を注いで頑張っているかっこいい人たちがいるから、福島でも夢を実現できるはずなのに、その人たちと触れ合う空間さえなかったと気づきました。それで、シェアハウスがあれば福島のコミュニケーションの場が一つ生まれるのではないかと考えてプロデュースして、経営しています。

 

 

 

ーどんな場所なのですか?

 

 

1階がカフェラウンジ、2階から4階がシェアハウスになっています。1階に若い人たちも大人の人たちも集まってくれていて。10代後半からおじいちゃんやおばあちゃんまで使ってくれていて、みんなが一つ接点を持てる場所になっています。形になるまで皆そういう場所が必要と気づいていなかったかもしれないけれど、作ってみるとこういう場所は必要と評価して頂いています。今はコロナ禍で難しいのですけど、インバウンド、県外から移住して来る人の受け皿になりたいとも思っていて。福島は魅力溢れるいい所で、人も温かいし、食べ物も美味しいし、温泉もあるし、自然も豊かでアクティビティもたくさんあるのですが、移住したいと思った時にちょっとハードルがあると思うんです。そこで、シェアハウスに短期でお試しで住んでみることができたらと。移住のハードルってそこに地元になじめるかどうかだと思うから、一つ地元のコミュニティが集まる環境があれば移住したい人も入りやすいかなと思って。今後ゲストハウスとして利用して頂く時も地元の人と繋がることができれば、観光をして終わるだけではなくて、友達が居る場所としてまた来て頂けると思うし、そういうきっかけとなる場所になりたいと考えています。

 

詳しくは▷https://www.instagram.com/vase_fukushima/

 

ーいろいろなことにチャレンジされていますが、サーフィンも始めたとか?

 

 

サーフィンは去年の6月に始めたばかりです。もともと海は大好きで、スキューバダイビングのライセンスは持っていて。ハワイとかフィジーでサーファーを見ていつかやりたいなとは思っていました。でも震災の経験があって、津波の恐さも知っていたし、友達が津波で家を無くしたり、ご家族を亡くされた方も多いのであまり福島で海が好きとは正直言えなかったです。津波でご家族を亡くされた方たちと一緒にラジオ番組に呼ばれてハワイに行ったことがあるんです。3人のお子さんのうち、上の2人を津波で亡くされ、お父さんお母さんは海を見るのが辛かったのですが、一番下の子供さんと私が手を繋いでビーチを歩いたら、その子が海に入りたいって言って初めて海に足を着けたんです。海が好きとはその人の前では言えないジレンマがあったのですが、震災から10年が経つこともあり、ずっとそこに立ち止まっていてはいけないから前に進もうって思ってて。上京してコロナ禍でいろいろ上手くいかないなっていう気持ちを晴らしたくて、ビルの中に居るより自然をもっと触れ合いたいと思った時に、江ノ島が近いから海に行こうって。ただ行くだけじゃなくて、新しいことに挑戦したいと思ってサーフィンスクールを申し込みました。そしたら自分の心と海の相性がすごくよかったみたいで。初めて波に乗った時の感動を今でも覚えています。ゆっくりすーっと乗っていくだけだったのですけど、自然と一体化したというのを全身で感じて。それでどっぷりはまりました。今まで海は恐いという印象も持っていたけど、逆に海からパワーをもらって、サーフィン大好きになっちゃいました。

 

 

 

 

ー震災後10年が経ち、あらためて思いを聞かせて下さい。

 

 

震災当時のことは決して忘れられないし、みんなにも忘れてほしくないという気持ちはあるのですけど、どうしても当時のイメージはネガティブなものが多過ぎて。そのネガティブな部分をプラスに、ポジティブに変えようとみんな復興を頑張って来た道のりが、一言でまとめられないぐらい、各方面の人たちが頑張って来た10年だと。なので、10年目を迎えてあえて震災当時のことを忘れないで下さいと発信するよりも、今の福島の素敵な部分、魅力溢れる部分を見て下さいと私は言いたくて。ここに来るまでの道のりを振り返る日として3.11があってもいいと思うのですけど、震災当時の暗く悲しい気持ちを思い出すのではなくて、今の福島、東北の人たちのパワーを感じる日になってほしいって。10年を振り返ると、私自身被災地で遺族の方と長く関わりを持って、原発の視察に入ったり、ボランティアで海水でだめになった畑の復興作業や被災者のケアなどをして来ましたが、こういう活動をして来たということをお話するよりもポジティブな気持ちで復興して頑張っている人たちの発信をしたいです。この10年でより一層福島が魅力的な場所に変わったと思うのです。追悼の気持ちもあるし、震災当時の恐さを忘れる訳ではないけれど、それよりも福島に来て頂けたらわかる魅力を来て頂けない人にも伝えられるように発信していきたいと思います。

 

 

 

ーアリスちゃんは本当に活動的ですね。その原動力って何なのですか?

 

 

自分がこうしたいと思ったら何でも挑戦するタイプなのですが、自分のために生きているという感覚がいつもなくて。本命は「愛」っていうのですが、”何で愛って名前にしたの?”って聞いたら、”愛は愛を与えられる人になりなさい。みんなに愛を与えられないと自分も愛されないから”って。それを聞いてはっとしました。私の使命って人に愛を与え続けることなんだろうなって。そうじゃないと私も愛されないんだろうなって。すごく腑に落ちたというか。頑張る原動力が自分じゃなくて誰かのためにっていう気持ちがいつもあります。だから何でもやれるというか。

 

 

 

Photo/Yuriko Yonechi

 

 

きれいな目に吸い込まれました。彼女の他者を思う気持ちはインタビュー中にも感じました。言葉だけではなく彼女のその振る舞いに表れていました。とても25歳とは思えない数々の活動経歴と思考の深さ。彼女がこれから大女優となり、そのインタビューをさせて頂いたことが私の思い出になることでしょう。人魚の女優さんのこれからの活躍を楽しみにしています。

 

小林アリス▷女優・タレント・モデル。1995年9月28日生まれ。タイ人の母と日本人の父の間に生まれ、タイ生まれ福島育ち。Miss Universe Japan 福島大会グランプリ受賞。Miss Universe Japan 日本大会特別賞受賞。正看護師免許を持ち、故郷の福島では様々な復興活動を行い、またカンボジアなどでも国際支援活動を積極的に行っている。

【Instagram】https://www.instagram.com/alice_kobayashi_official/

 

 

▽Photos/Yuriko Yonechi